緑の家・北軽井沢プロジェクトについて掲載されました。
昨年作った日干し煉瓦を並べながら植生園作りをしているときに、参加者の一人が「メソポタミア文明は日干し煉瓦ではなく、焼成煉瓦を選んだために滅んだ」という話をしていました。つまり、大量の煉瓦を作る際に、森林を切り開いた結果、環境破壊を招いたのだというのです。本当かどうか気になって調べてみると、環境破壊で都市文明が滅んだという説がある一方で、文明が高度に進むと、あえて環境の悪い都市にまとまって生活する必要がなくなり、みなが適度にちらばって暮らすようになったため、都市は廃れたという説が紹介されていました。 どちらの説が正しいかはわからないけれど、現代の社会にあてはめて考えてみると、面白いことに気づきました。いま私たちが暮らしている社会を文明の発展段階と仮定してみます。郊外や地方がまだまだ発展途上で不便なため、仕方なく手軽で利便性の高い都市での生活を選択させられているのだと。 一方であえて若干の不便さを覚悟しつつ郊外や地方へ移り、自然の豊かなところで生活するというライフスタイルを積極的に選ぶ人たちも増えてきたりしています。こうした動きが進むと、都市からは人が減り、みなが適度にちらばって、より小さなコミュニティ単位で暮らすようになり、その地域で作った野菜や、そこで獲れるものを食す暮らし方が主流になっていく、なんてことがあるのかもしれません。 しかし、そもそも「都市vs郊外・地方」という発想の仕方を一度捨ててみることが必要ではないでしょうか。都市には都市ならではの面白さがあるし、郊外・地方には都市にはない良さがあります。それは同じモノサシでは比べられないし、どちらか一方を選ばなくてはならないというものではないと思います。例えば、拠点を二つかまえて暮らすという発想だってできるのです。 通勤に便利な都心でマイホームを建てようと思ったら、30年ローンを組んで、まさにそのローンを返すための労働に縛られるような生活が待っています。かといって、一方の賃貸物件は、どれも似たような間取りで、とてもそこで生活する人のことを考えて作ったとは思えないような物件が並んでいます。多くの人は、賃貸か分譲か、という選択肢の狭間で悩んでいたりします。しかし、現実問題として住まい方がたった二つの選択肢しかないというのはあまりにも貧しい社会なのではないでしょうか。 そもそも都心で広くて快適な家に住もうと思ったら、かなり高額な買い物になりますが、もし平日は残業で帰宅が遅く、寝るだけに帰ってくるのだとしたら、そんな家が本当に必要なのでしょうか?都会に住むなら、都会生活を楽しめるのに適した家で十分で、それにはどんな要素が必要になるのだろうか?という問いにまで立ち返って考えてみることが大切なのかもしれないのです。 たとえば、若い独身者であれば、平日は気の合う仲間と一緒にシェアハウスにでも住んで、週末は緑豊かな郊外に建てた家で過ごしたり、北軽井沢のエコビレッジのようなところで過ごすのもいいでしょう。本来、住まい方は多様なものであるのに、いつの間にか自由な発想ができなくなってしまっています。 参加者の何気ない会話から、自分たちの社会や住まい方まで考えを発展させてみると面白いことが見えてきます。この北軽井沢プロジェクトのワークショップは、自分の普段の生活を振り返るきっかけを提供する場であったらと思っています。 |